1997年 村岡フェニックス創立

  藤沢市村岡、高谷地区でそれぞれ20年以上の歴史を持つ少年野球チーム「村岡パンサーズ」と「村岡少年野球クラブ」は平成7年(1995年)くらいから地区の少子化、新興のJリーグ人気による野球人気の低下などによる部員数減少で悩んでいた。単独チームとして選手数が揃わない可能性も出てきて、平成8年(1996年)くらいから両チーム関係者の間で合同、合併といった話が出始めていた。

  平成9年(1997年)、当時の4年生以下の両チーム選手は、「村岡クラブ」という登録名で合同チームを作り藤沢市秋季大会の3部にエントリし勝ち進み見事3位に入賞した。

  これをきっかけに秋頃から両チームの合併話が本格化し、双方のチームは解散し、改めて対等な立場で新しいチームとして活動を開始することで合意した。

  同じ少年野球のチームとはいえども、チームの運営方針、保護者会のあり方、スタッフの役割、部行事など双方の歴史から来る相違点もあり、統一は簡単なことではなかった。このため、両チームの代表、マネージャー経験者、保護者代表からなる合併推進委員会を設立し、細部にわたっての協議を行い新チーム発足の下準備を開始した。新チームの名称も、両チームから公募し、139件の応募の中から5件(フェニックス、キッズ、ブルーシャークス、パワーズ、ドルフィンズ)に絞り子供たちの人気投票を行った結果、新チーム名称は「村岡フェニックス」と決まった。新チームの名付け親は小峰君のお母さんと桜田健太郎君であった。

平成9年(1997年)12月20日、ここにめでたく村岡フェニックスの創立を迎えた。

  明けて平成10年(1998年)1月15日、大雪の中、村岡市民の家にて餅つきが行なわれ、新年行事の「バット開き」により村岡フェニックスは正式にスタートした。チーム代表は佐藤信夫氏が就任し、最上級生の6年生は1人、5年生12人、4年生6人、3年生1人、2年生1人の21名選手達での船出であった。

創立時選手
桜田 浩、鷲巣 清人、新倉 渉、木内 寛久、桜田 健太郎、
藤原 誠、佐古 健太朗、中村 一也、林 義仁、小峰 誠、
市山 和平、田原 悠太、近藤 龍徳、高木 俊輔、川島 直樹、
佐々木 亮典、宮尾 和樹、大類 友樹、内海 光、荒井 直樹、
佐藤 正悟